2014年11月9日日曜日

トリエンナーレとどくんご/イノシシおじさん、ゴディバの母ちゃん

昨日は中洲川端にあるあじびで福岡アジア美術トリエンナーレを見た後、須崎公園でやっているどくんごの公演を見に行った。


トリエンナーレは壮大。世界にはわたしの知らないたくさんの国や民族があって、そこには無数の人たちが生きて、生活している。数にしてしまえば個々の凹凸は捨象されてしまうけれど、一人ひとりの物語は宇宙規模で、ドラマチック、捉えがたい。
それらは作品にせずとも何気ない日常の中でもふと透けて見えたりするけれど、でも作品として提示されることで、その地へ一度も行ったことのないわたしでも少しだけ思いを馳せることができる。無数の宇宙の存在は、作品として目撃、知覚されるものもあれば、見られることのないまま埋もれていくものもたくさんあるわけで、わたしが毎日やっている仕事であっても同じことで、毎日会うことができた人だけ、その人の人生を少しだけ垣間見ることができる。一瞬通り過ぎるわたしは透明人間のような存在で、その土地で暮らしている彼や彼女に関わることはほとんどできないけれど、日々、わたしは彼らの言動に揺さぶられる。生身の人間に触れているのだという確かな手触りがあって、でもだからといってそれをどうすることもできないのだけれど。

先々週山奥で出会った、イノシシ好きの農家のおじさんは、イノシシを食べることも、飼うことも好きな人だった。
野山を荒らすイノシシを自衛の為に捕ってきては、すぐには殺さず、村の人たちからもらった古米や栗をやって飼育し、肥えさせて、自分で捌いて食べる。一時は40頭も飼っていたとか。イノシシというと「肉がくさくて食べられない」と言う人がいるけれど、おじさんが言うには、血抜き処理をしっかりすればくさみもない上等のお肉になるのだそう。村のお肉屋さんみたいな人で、イノシシのお肉を闇で売ってお金に替えることもあったそうだけれど、でもそれはお金を儲けたいという思いが最初にあったのではなく、まず自分が食べたいと思うからやっていることで、今でも毎日、奥さんに鹿やイノシシの肉をサイコロステーキのように焼いてもらって食べているんだとうれしそうに話してくれた。
そのおじさんが若いころ事故をして自分でご飯を食べることができなくなった時があったらしく、味噌汁とごはんを食べさせてもらうときに、ああ、もう一口、味噌汁飲みたいなと思うのだけれども、伝えられなくて、口にご飯が運ばれる。その時を振り返って自分が食べたいと思ったものが食べれない不自由は最悪だった、もう少し味噌汁飲みたいと思ったときに無理やりご飯を食べさせられるなんて酷い話だ、自分はもう年だけれどこの先動けなくなって寝たきりになるようようなことがあって自分の好きなものを自分の好きなタイミングで食べられなくなるくらいなら死んだ方がましだ、と迷いなく言い放っていて、わたしはなぜだかすごく感激してしまった。
肌のつやつやした、少し太っちょの、イノシシ飼いのおじさん。わたしが会ったときは黒いネットをかぶって、虫取り網を持っておじさんが飼っている日本ミツバチを襲うスズメバチ退治をしていたところだった。ハチミツを毎日ヨーグルトに入れて奥さんと一緒に食べるんだと言っていた。
イノシシも蜂蜜も美味しくて、自分が食べたいから飼う。そのために仕事をする。食べたいものを食べることができるから生きる。正しさとかは置いておいて、その単純さと力強さにやられてしまった。




ゴディバの母ちゃんは、「ミトリ豆という豆をつくったら美味しくて美味しくてわたしハマっちゃった」らしく、それをおこわにするとこれまたものすごくおいしいから今度食べにおいでと言ってくれたのだった。
後日訪ねて行くとおこわのおにぎりとお茶とお漬物とあさげの味噌汁を出してくれた。そしてパックにつめたミトリ豆のおこわをわたしに持たせてくれたのだけれど、そのときおこわを入れてくれた袋がゴディバの紙袋だった。わたしが「ゴディバとか食べるんですね」と聞くと、「それゴディバって読むの?わたし何て読むのかなと思っていたのよ」と。家にきれいな袋があったからそれに入れてくれたのだそう。ゴディバなんて知らなくても、出してくれる味噌汁があさげでも、ミトリ豆にはまった母ちゃんのおこわはたいそう美味しく、わたしはその母ちゃんもミトリ豆もすごく好きになった。




いつか、「あなた自身の毎日をドキュメントするだけで面白い作品になる」と言われた時があって、最初は意味が分からなかったけれど、今はよく分かる。どんな人にも広大な宇宙のような物語があるのだということ。




どくんごの芝居には全部があって、うれしくて、楽しくて、あたたかくて、さびしくて、悲しい。愛おしい。見るたび毎回やられてしまう。言葉を使っているけれど言葉ではないなと思う。




小さな花一つをとっても、どうしてそれを十分に理解することができただなんて言えるのだろうか。
毎日躓くことは、毎日に慣れていくことよりも至極まっとうなことであると思うのです。それでは社会が機能しなくなってしまうのだろうか。話すこと、聞くこと、食べること、歩くこと、伝えること、どれ一つをとってもわたしには分からないことばかりで、でも多分全部わかることなんてないのだと思うから、だからこそ謙虚でありたいなと思う。