2014年12月31日水曜日

としの終わりに

仕事も納まり、実家に帰って手帳と日記を見返しながらここ2年のことを振り返っていました。ものすごく長くて長くて、でもあっという間に過ぎた気もします。

大学を卒業してから、毎日たくさんの場所に行ってたくさんの人たち(主に農村で暮らすひとたち)に会い続けている。去年からそんな生活が始まって、いろいろなひとやものや風景に出くわすたびに世界はひろがり、その壮大さや複雑さ、日々いろいろな顔を見せる世界に触れてはその都度感嘆していたのだけれども、一方で、このひろがりつづける世界に対して、そのひとつひとつに自分がどう関わっているのか、どう関わったらいいのかが分からなくて、それに無力感やもどかしさを感じることもあって。
毎日入る情報をうまく飲み下せず、だけれども新しい場所や人へ会いに行く生活は続き、消化不良を起こしながらずるずると引きずられるようにして、とりあえずここにいるという感じ。

行った先の場所や人のことをふと思ったときに、なんだかそれは夢の中のお話だったかのように実感が持てず、わたしの今いる場所とつながっている気がしない。
経験が分断されていることと、それが知らぬ間に失われていってしまうことへの不安がぼんやりとありました。
人との関係もそうで、自分のいる場所やコミュニティが変わっていくことで、関われなくなってしまうひとたちがいるのはどうにもできないことなのかもしれないけれど、それをうまく受け止めることができなくて悶々としていた一年だったような気がします。

ある一定の根付く場所を持たず、自分の手を動かして地道に営むことができない生活であることにも由来しているのかもしれないけれど、でもそれはこの2年間に限ったことではなく、これまでの自分の学びのあり方自体が分断されたその場しのぎのものであったからなのかもしれないなと。
すべての経験をつなぎとめておくことは難しいと思うけれど、それをどう位置付けて、人にパスあるいは自分のものとして定着させるのか。または自分がうまく関われないことやひとを否定せず手ばなせるか。どこかではすべてすべてつながっていることだと思うので、ひとつづきの人として、関わることも関われないこともちゃんとしていきたいなというのが来年の抱負。

振り返ってみると今年は躓いてばかりの一年だったけれど、でもわたしにとってそれはとても大事なことだったと思うのでいまはそのいろいろに感謝。
来年はゆっくりとでも、日々の経験を言葉にしたり、自分のものとしてつなげていくことができたらいいなあ。



写真は今年みたいちばんの夕焼け。国東半島にて。

来年もきれいなものにたくさん出会えますように。

2014年11月9日日曜日

トリエンナーレとどくんご/イノシシおじさん、ゴディバの母ちゃん

昨日は中洲川端にあるあじびで福岡アジア美術トリエンナーレを見た後、須崎公園でやっているどくんごの公演を見に行った。


トリエンナーレは壮大。世界にはわたしの知らないたくさんの国や民族があって、そこには無数の人たちが生きて、生活している。数にしてしまえば個々の凹凸は捨象されてしまうけれど、一人ひとりの物語は宇宙規模で、ドラマチック、捉えがたい。
それらは作品にせずとも何気ない日常の中でもふと透けて見えたりするけれど、でも作品として提示されることで、その地へ一度も行ったことのないわたしでも少しだけ思いを馳せることができる。無数の宇宙の存在は、作品として目撃、知覚されるものもあれば、見られることのないまま埋もれていくものもたくさんあるわけで、わたしが毎日やっている仕事であっても同じことで、毎日会うことができた人だけ、その人の人生を少しだけ垣間見ることができる。一瞬通り過ぎるわたしは透明人間のような存在で、その土地で暮らしている彼や彼女に関わることはほとんどできないけれど、日々、わたしは彼らの言動に揺さぶられる。生身の人間に触れているのだという確かな手触りがあって、でもだからといってそれをどうすることもできないのだけれど。

先々週山奥で出会った、イノシシ好きの農家のおじさんは、イノシシを食べることも、飼うことも好きな人だった。
野山を荒らすイノシシを自衛の為に捕ってきては、すぐには殺さず、村の人たちからもらった古米や栗をやって飼育し、肥えさせて、自分で捌いて食べる。一時は40頭も飼っていたとか。イノシシというと「肉がくさくて食べられない」と言う人がいるけれど、おじさんが言うには、血抜き処理をしっかりすればくさみもない上等のお肉になるのだそう。村のお肉屋さんみたいな人で、イノシシのお肉を闇で売ってお金に替えることもあったそうだけれど、でもそれはお金を儲けたいという思いが最初にあったのではなく、まず自分が食べたいと思うからやっていることで、今でも毎日、奥さんに鹿やイノシシの肉をサイコロステーキのように焼いてもらって食べているんだとうれしそうに話してくれた。
そのおじさんが若いころ事故をして自分でご飯を食べることができなくなった時があったらしく、味噌汁とごはんを食べさせてもらうときに、ああ、もう一口、味噌汁飲みたいなと思うのだけれども、伝えられなくて、口にご飯が運ばれる。その時を振り返って自分が食べたいと思ったものが食べれない不自由は最悪だった、もう少し味噌汁飲みたいと思ったときに無理やりご飯を食べさせられるなんて酷い話だ、自分はもう年だけれどこの先動けなくなって寝たきりになるようようなことがあって自分の好きなものを自分の好きなタイミングで食べられなくなるくらいなら死んだ方がましだ、と迷いなく言い放っていて、わたしはなぜだかすごく感激してしまった。
肌のつやつやした、少し太っちょの、イノシシ飼いのおじさん。わたしが会ったときは黒いネットをかぶって、虫取り網を持っておじさんが飼っている日本ミツバチを襲うスズメバチ退治をしていたところだった。ハチミツを毎日ヨーグルトに入れて奥さんと一緒に食べるんだと言っていた。
イノシシも蜂蜜も美味しくて、自分が食べたいから飼う。そのために仕事をする。食べたいものを食べることができるから生きる。正しさとかは置いておいて、その単純さと力強さにやられてしまった。




ゴディバの母ちゃんは、「ミトリ豆という豆をつくったら美味しくて美味しくてわたしハマっちゃった」らしく、それをおこわにするとこれまたものすごくおいしいから今度食べにおいでと言ってくれたのだった。
後日訪ねて行くとおこわのおにぎりとお茶とお漬物とあさげの味噌汁を出してくれた。そしてパックにつめたミトリ豆のおこわをわたしに持たせてくれたのだけれど、そのときおこわを入れてくれた袋がゴディバの紙袋だった。わたしが「ゴディバとか食べるんですね」と聞くと、「それゴディバって読むの?わたし何て読むのかなと思っていたのよ」と。家にきれいな袋があったからそれに入れてくれたのだそう。ゴディバなんて知らなくても、出してくれる味噌汁があさげでも、ミトリ豆にはまった母ちゃんのおこわはたいそう美味しく、わたしはその母ちゃんもミトリ豆もすごく好きになった。




いつか、「あなた自身の毎日をドキュメントするだけで面白い作品になる」と言われた時があって、最初は意味が分からなかったけれど、今はよく分かる。どんな人にも広大な宇宙のような物語があるのだということ。




どくんごの芝居には全部があって、うれしくて、楽しくて、あたたかくて、さびしくて、悲しい。愛おしい。見るたび毎回やられてしまう。言葉を使っているけれど言葉ではないなと思う。




小さな花一つをとっても、どうしてそれを十分に理解することができただなんて言えるのだろうか。
毎日躓くことは、毎日に慣れていくことよりも至極まっとうなことであると思うのです。それでは社会が機能しなくなってしまうのだろうか。話すこと、聞くこと、食べること、歩くこと、伝えること、どれ一つをとってもわたしには分からないことばかりで、でも多分全部わかることなんてないのだと思うから、だからこそ謙虚でありたいなと思う。



2014年9月20日土曜日

ホトケのばあさま

村を回っているとたまにホトケみたいな、やーさしい、謙虚で悟りきったばあさまに出会うことがあるけれど、どんなふうな人生送るとあんなふうな感じになるのだろうか。
見知らぬ私が玄関先にバイク乗り付けていってもあーはいはい、みたいな感じで全然動じず、それでいてお茶やら漬物やら出してくれて。

こうありたいと自分が思うようにいきるのはなかなかに大変なことで、毎日が弱い心とのたゆまぬ戦いであるなあと思います。


このあいだ、宮本常一について書かれた本を読んでいたら、彼が故郷の周防大島を離れて大阪に出るときに父親から言われたという旅の「十か条」が書いてありました。


(1) 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へ着いたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々をみておけ、そして山の上で目をひいたものが、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたらみちにまようようなことはほとんどない。

・・・・・・・

(10) 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ、あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。


一枚の写真から、車窓からの一瞬の風景から、その村やその村に住む人々のことを知る、わかろうとする、記憶していく彼の営みはとても真似できるものではないけれど、毎日毎日新しい場所で知らない人たちに会う仕事をしているのであれば、知るとか見るといったことは、もっともっと深い場所で為されるべきだと思う。
という思いばっかり。


今日は朝寝坊(いつもどおり目覚めたけどうなされたのでもう一度寝た)のあと、部屋の片付け(まりりんからの手紙に掃除が良いとあったから。特にトイレがいいとあったけれど林田さんがきれいにしてくれているのでトイレットペーパー三角にするくらい)。
お手紙書いて、絵も少し描いて、荷物をまとめて実家に送り、買い物、箱崎の本屋さんへ。
3時間くらい本屋さんにはいたけれど買ったのは加藤さんの呼吸の本だけ。本屋さんには本当にたくさんの主張が並んでいる。
帰りみち、かなたさんから来たメールにじーんとして、息を吐き吐き、マッサージしてもらって寮。


宮本常一も、ホトケのようなばあさまもいまのわたしには遠く遠くだけれども、息を吐いて吸って、吐いて吸って、いまを生きることを積み重ねていくしかないなあと。
ばあさまになるまではまだ随分と時間はあるし。




今週は大分の由布に居ました。
由布川渓谷にて。




電線がない景色は日本昔話に出てきそうだった。


2014年8月9日土曜日

お盆

この時期、村の人たちは家や墓の周りをきれいにしています。お盆はすぐそこ。

彼らの、死んでいった人たちとのつながり方やその心持ち、そのために自分の身体を動かすこと、時間を充てるといったことは、なんだか豊かで羨ましくなることがあります。
墓の周りの草を刈るおじいちゃんとおばあちゃんの横を、バイクで通り過ぎながら。道に面した小高いその場所にはきっと気持ちいい風が吹くだろうなあと思いました。

盆踊りはお囃子と太鼓と口説き手と踊り手が居ないと出来ないと教えてもらいました。各集落ごとにお盆の習わしは少しずつ違って、でもどこもいままで続いてきたそれを伝えて残そうとしていました。

写真は女性では珍しい口説き手のおばあちゃんに見せてもらった台詞。杵築市大田小野にて。
口説き手は今でいうDJみたいな感じだったのではないかなと想像する。
町田康の告白を読んで以来、昔の盆踊りの熱狂を思い浮かべてはいつかはわたしも踊ってみたいと思うのです。


2014年7月20日日曜日

経ることができるから経験する

ここのところ失語中で、なにか話そうとおもっても薄っぺらな言葉しか出てこなそうなので写真だけ。



先月は和歌山へ一カ月行っていましたが、いまは大分県の耶馬溪というところに通っています。






ことばはあとからついてくるのでしょうか。




突然、だいすきだったふたりがいなくなってしまったけれど、いまでもその存在に励まされていて、どこか遠くの川のきれいなところで歩きながら歌を口ずさんでいるのではないかしら。

わたしたちは経ることができるから経験するのだと、
友人から届いた手がみに書いてあったことばに何度も何度も救われる。




2014年5月4日日曜日

5月の休日 花のかおりに

季節だからか、まぶしいくらい道々の花が輝いていて、みるたびに一瞬、こころを奪われる。

■博多

毎週末、博多の寮に戻るたび、庭先にジャスミンの花が咲いているのを見た。林田さんが言うにはジャスミンの花は咲いた後はすぐに枯れてしまうのだそうなのだけれど、ちょうど気温があまり上がらなかったこともあって、3べんも見ることができた。つぼみがピンクに色づくまで、寮の前にジャスミンの木があったことなんて知らなかったけれど、咲きほこるジャスミンはその存在を見過ごせないくらいにものすごい香りを道中にばらまいていた。


つぼみは濃いピンク色だったのに、咲くと花は白くて、なんともいえずかわいらしくて、すこしだけ自分の部屋に持ち帰って絵を描いた。絵を描くという行為によってすこしでも近づきたいと思っていたのだけれど、なかなか簡単にはいかなかった。


ジャスミンの花に限らず、心を奪われるものごとに出くわすと、どうにもできないきもちになって(わたしはそれになりたいのかもしれない)、どんな方法によってかよりちかくに、ちかくにと行きたくなる。踊りや、歌や、文章や絵を描くというのは、あるものに近づくための儀式のようなものではないかと勝手に思っているのだけれどどうだろうか。そういう儀式をするときは、わたしのこころはとてもしん、とした気持ちになっていて、何かをしなければならないとかいった日常にある雑多な気持ちと離れて、なにか祈りにも似た静かな気持ちになることができる。


■天草

4月は、3月までいた沖縄を離れて、熊本の天草へ。



海の向こうには雲仙普賢岳があって、引き潮と満ち潮、雲のようすや光の当たり具合で海は毎回表情を変えて、その都度その都度、わたしはなんとも言えない気持ちになるのでした。久々の田圃のある風景。その土地特有の景色、ランドスケープを気にするようになったのはさいきんのことで、その景色のなかで生きているひとたち、その景色をつくってきたひとたちはどんなふうに暮らしていたのだろうか、そしていまどんなふうに暮らしているのだろうかと、思うだけでだれも答えてはくれない疑問が浮かぶ。


わたしの故郷には海がないから、海がある生活というものは縁遠いものだった。小さな島で出会った花農家のおじさんは「ここは別天地さ」と豪快に言って、バイクで周囲4キロの島を案内してくれた。島の中は治外法権みたいな感じで、ヘルメットもつけない、ナンバーもつけていない車やバイクの人が多かった。その島は、わたしが3年前に行った祝島にどことなく雰囲気が似ていた。若い人はやはりすくなくて、ほとんどが60代以上のおじいちゃんやおばあちゃんだった。



海にはポツリポツリと小さな島々が浮かんでいて、大きな島同士をかける5つの橋を毎日バイクでわたりながら、毎度毎度、その景色に見惚れた。毎日、こんな風景をみて、その土地の人と話していても、それをだれとも共有しないままにいると、なんだか、自分が見たり聞いたりしていることは全てまぼろしなのではないかと思えてくる。



くもの切れ間から光が差し込む様子は神話の世界のようだった。




■長野


お休み前、仕事で一日だけ長野に行った。一年前を思い出す。博多から名古屋へ出て、名古屋から長野駅へ向かった。木曽山脈と木曽川に沿って線路は走っていて、車窓から見える景色は格別だった。ここでは天草とは全く違う暮らしが営まれているのだろうと思った。帰り道の車の中で、雪が残る高い山々を見た先輩が、これを毎日見ていたら神さまがいるって思うだろうねとぽつりと言っていた。


2月に沖縄に行ったらもう桜は散っていて、3月末に戻った博多でももう桜は散っていて、4月末の長野では、いまちょうど桜が咲いていた。


■埼玉

長野から休みをもらって帰省した。特に何も誇るもののない地元だけれど、あちこち外の地域を回るようになってから、また近くの景色を見渡してみると、案外いいところもあるように思えた。幼馴染の友人がつくった酵素ジュースと秋に採った栗ペーストのクッキーを持って庭に御座を敷き、ピクニック気分で乾杯した。




それから、このあたりもきれいなところがあるんだねと一緒に近所を散歩した。




それでも近くの雑木林がメガソーラー施設を設置するためになくなってしまっていたり、またそんな場所ができる、という話を聞いたりした。
景色がいつもよりきれいに見えるのは、失われてしまうことを考えるからなのかもしれない。天草のあのきれいな風景であっても、むかしと比べればもうたくさんのものが失われていた(豊富にいた貝や魚たちがものすごく減ってしまったという話を聞いた)。損なわれたり失われてしまうかもしれないという惧れの感覚は、さいきん特に切実で、田舎を回っていると、もうこの世界は取り返しのつかないところまで来ているのではないかとおもうことがよくある。誰が悪い、ということもなくて、その大きな流れに抗うことは難しくて、わたしは失われてしまうかもしれないものたちをただただ愛でることしかできない。

そういえば、村上春樹の新刊も、失われてしまったものたちの物語だった。東京に行くたびに大きなスーツケースをもって嵐のように訪れて嵐のように去っていくわたしを毎回あたたかく迎えてくれる友人が、なぜか同じ本を二冊持っていて、その一冊をくれた。女のいない男たち という題名は萩尾望都のマージナル を思い出させる。男のいない女たち というのは題名としてなんだか恰好がつかないのかもしれないけれど、でもわたしのまわりにいる魅力的な友人たちは、長く付き合っていても分かるようで分からない部分がたくさんあって、そんなタイトルでわたしも本一冊くらい書けるのではないかと思ったりもした。

さいきん、仙台の友人と文通をしていて、週末に博多の寮に戻るとはがきが届いているのだけれど、そこにあった「私達はいつか、身体に無理な仕打ちをしない生き方に行き着くのだと確信しています。」という言葉に何度も救われる。
この間読んだ早川ユミさんの「種まきノート」という本がとてもよかった分、そこで描かれる生活の豊かさと自分のそれとのギャップに打ちのめされもしていたわたしは、彼女の言葉をお守りのようにもって、じぶんの今を励ましている。ここでも多分たくさんできることがあって、それをちゃんとしようと思う。
幸せはそこいらじゅうに転がっていて、実家の味噌汁がすごくおいしかったこととか、職場の先輩や同輩がほんとうにいい人たちばかりであることとか、あちこち移動しながら見る景色がそれぞれ美しくて、そこで生きるひとたちの素晴らしい営みや人柄に出会えたときだとか、そういうものに毎日励まされていて、わたしもまた誰かを励ませるような働きができたらいいのにと思う。

そしていつか、自分の小さな庭を持つことができたら、木香薔薇と難波茨とジャスミンの苗を植えたい。



花のかおりに、というフォーククルセダーズの音楽がとてもすきです。




2014年4月5日土曜日

リュックを背負うと両手が空く


春の雨が降る博多で、今日は本を読んだり珈琲を飲んだり買い物をしたりしました。
あさの、すこし肌寒くて薄暗い部屋でお布団の中に入ってあれこれと考えながら少し泣いたのは、ただ単に眠かったからかもしれない。夢と日常の境目はいつもはかなくてとても愛おしい時間。色彩がなくて、乳白色とかグレーとかそんな色が似あうなあと思います。

文字はずっと前から書いていたけれど、大学で一人暮らしをしていたときにも書きつけていたけれど、こんなに自分に必要なものだとは思っていなかった。後から読むとものすごく陳腐な内容でも、自分が欲しい言葉や物語はけっこう自給できるものであると最近気がつきました。さすが、むかしから続いてきた営みである。文字がなくてもきっと唄があったのでしょう。

このごろよく想うのは、自分のなかに住む少女について。遠くにいる女友達や知り合いのなかにいる少女も勝手に想像する。わたしはそれを少女って呼ぶけれど、ひとによって違うようで、それをウニヒピリという人もいるし、神さまっていう人もいるし、天使という人もいる。
幼くてさびしがり屋の神さまで天使で少女。自分がどんなに不幸と思っても思われてもそのこのことだけにはやさしくする。
例えば飛行機の添乗員さんがなんだか苛々していて、それを見るわたしも少し苛々するのだけれど、そんな自分に気づいたとき彼女の中にいる少女のことを思い浮かべてみる。膝を抱えてさみしそうにしている少女の、その満たされなさに水でもあげたくなって、優しい気もちになったとき、そのとき同時にわたしの中にいる少女も少し潤った気がしました。
小さくて、幼い、それでいて純粋なその子のことは守れるのはわたししかいないから、でも、遠くにいる女友達の少女たちもしあわせでありますようにって思っています。彼女たちが無邪気に野原を駆けまわれるような世界になったらいいなって思います。(男の子の中にいる人は何て呼ぶのかな、わたしにはまだよく分からない)
川上未映子が書く少女はいつもひとりで分かち合えないものを大事に抱きしめて行き場をなくして立ち尽くしている。そっと手を当ててやると光が少しあたるようで、彼女が喜ぶとわたしもうれしい。おまじないや活元や愉気はわたしにとっては主にその子のためにある。

日々バイクで営業して回るなんてよっぽどマッチョな仕事だと思うのだけれど、冷たい雨でカッパ着て身体が冷えたときとか、もう自分なんてどうにでもなれという捨て鉢な気もちとその中にいる少女を守ってやらなきゃっていう優しい気もちがふたつある。両方ありだと思うけれどわたしは後者を大事にして、反マッチョ運動をしていこうと思います。今日の夜の飲み会でそんな話をしていたらみんなに笑われた。

今週は茨城にいたのでした。どのつく専業地帯、きつかったけれど、やっぱりわからないものはそこいらじゅうに転がっていて、面白がれたらいいなあと思う。
海外の実習生制度ってやっぱりなんだかぞわぞわします。違う文化と言葉を持った人を家の仕事に使うってどんな感じだろう。それこそ、おなじ生きものである人間として対応できる人とそうでない人がいる気がした。介護にも海外からの実習生を呼ぶと新聞に載っていました。
この、多国籍になること、じぶんの周りに違う国の人たちが増えることへの恐れはどこからくるんだろう。対等に理解しあうというのは同じ日本に住んでいても難しいのにそれがさらに難しくなりそうで怖いのかな。理解できないものへの恐れは簡単に暴力的なものになると思うから。

世界はよくわからないもので満ちていて、変わること・変わらされることを怖がるわたしはひとつひとつに毎回おののいているけれど、でもだから毎日がおもしろくて、なにか発見した時は、きっとこれはわたしがいちばんに見つけたものだと好きなひとにくちぐちに告げて回りたくなります。

買い物をして帰ってくるときは大荷物で、むかしの人が村を降りて、家族が必要なものであったり、ちょっとした晴れ着や子どもたちへのお土産を町に買いにいくのはこんな感じなのだろうかと思いました。薄給に見合わない買い物をするのも一興。蛍光ペンはインキカートリッジのやつで、ノートはLIFEという薄くて丁度いいサイズのやつで、シャンプーは頭皮やそのへんの生きものにもいいかんじのやつ、という一見どうでもいい買い物の変なこだわりは、そんなに窮屈なものではなく、わたしの身の回りにあって日々守ってくれるおまじないみたいなもの。

今日買ったもの
・文房具
・色鉛筆
・ノート
・本
・シャツ
・長袖
・インスタントコーヒー
・化粧水、乳液
・シャンプー、リンス
・地図帳
・リュックサック

髪は切らなかった、靴も買わなかった。

2014年3月29日土曜日

生きものであることをわすれない

「僕らはとても忘れっぽい」

森達也が『いのちの食べかた』でこう書いていたけれど、本当にそうで、だからこそ戦争は繰り返されるのだし、沖縄に基地は在り続けるのだし、原発は日本から、世界からなくならないのだろうと思う。


うりずんの沖縄は、きらきらと輝いていて、こんなに世界は美しいのに、最近のニュースを見ていると戦争はすぐそこだなと感じます。


自分自身が、あたたかい血の通った生きものであること
それぞれの痛みや喜びを想像すること


これをわたしたちは往々にして忘れている。戦争や基地や原発の問題というのは、誰かが悪いというのではなく、わたし自身にもその芽はある。人間のとても弱い部分。じぶんを大きく見せたいとか、ほかの人より優れていると認められたいとか、満たされない思いだとかがふくらんで、思念の塊になると誰かを排斥せずにはいられなくなるのだろうか。ネット上で人を叩きまくる、いわゆる「ネトウヨ」の人たちにリアルで出会ったことはないのだけれど、多分彼らはただのさびしがりだろうと想像する。満たされない思いのはけ口を煽動することは容易くて、それは、えた非人百姓武士の身分制度があったころから一部の人たちの思惑のために利用されてきたものであるのに。


国が違えば、文化も違うからうまくコミニュケーション取れないのは当たり前だ。隣にいる人とであっても理解しあうことは難しい。コミニュケーションが取れないと、じぶんのことを理解してもらえない苛立ちが募ると、「よく分からない」相手を「あいつはこうこうこういうやつだ」と自分と隔てたものとしてラベリングする。忘れっぽいわたしたちは、その人が自分と同じ、あたたかい血の通った生きものであることをすぐに忘れて、簡単に攻撃することができるようになる。


こういう感覚的な話っていうのがどこまで伝わるかは分からないのだけれど、先週末仙台に行って、久々に友人たちと会って、HaTiDORiのイベントをして、山田洋二の「学校」を見て、しみじみとそう思いました。


***


22日のHaTiDORiはほんとうに素敵な集いになりました。



ちひろさんが「毎回HaTiDORiに参加して感じることは 、皆さんほんと優しいなぁってこと。愛を感じる。それぞれ意見や環境は違うけど、だれかの為に行動するって大きな愛だと思う。毎回 私は愛の連鎖のようなものに感動している。」と書いていたのだけれど、わたしも本当にそう思う。


わたしたちはさっき書いたような弱さもあるけれど、こういう優しさもみんな持っているのだと思う。
子を想う母親や大人たちの純粋な愛情にやられました。
震災後の東北に生きるお母さんやお父さんたちは日常生活の中でどうやって子供たちを被ばくから守れるだろうと毎日闘っていて、彼ら彼女らを支えたいと支援する人たちも闘っていて、それはきれいごとではなくて先の見えない長くて苦しい闘いだろうと思うのです。spaceship 仙台ゆんたという小さな幼稚園を営みながら、ちいさなたびJapanという母子週末保養プロジェクトを続けている虹乃美稀子さんが、悲しい話をしたらきりがないけれど、でもそれを分かち合える人がいるだけで全然気持ちは違うのよ、と言っていて、わたしも遠くにいても、耳を澄まして寄り添っていきたいと思いました。

トークをしてくれたISEP環境エネルギー政策研究所・研究員で、エネシフみやぎのメンバーである浦井彰さんのお話で面白かったのが、「お母さんや女性というのは頭じゃなくて、本能的に動くことができるけれど、男性は経済とか、論理的な部分を大事にするからなかなかこうした運動で前に出てくる人が少ない」ということ。
男性・女性で区別するのは難しいけれど、確かに人によってそういう考え方の違いはあるだろうなと思う。原発が危ない、低線量被ばくが不安だ、子どもたちの代に負の遺産を残すのは止めようと本能的に思う人と、そういう感覚よりも、今どれくらいの電気を使っていて、どれくらい無駄があるのか、原発は使っていないけれど化石燃料燃やしてできるエネルギーはいつぐらいまで持つのか、代替エネルギーの実現可能性はどれくらいあるのかと具体的な話が分からないと賛成も反対も言えないという人と。どっちも大事な考え方で、浦井さんのように後者の疑問に答えてくれる人がいるのはありがたいことでした。


会場で、子どもたちが楽しそうに遊ぶ声を聞きながら、これからのこと、わたしたちは何ができるのかを考える。低線量被ばくからどう守れるだろう。自分の子どもがいてもいなくても、子どもはわたしたちの子どもで、みらいの種であるということ。忘れっぽいわたしたちは何度でも何度でも思い出さなきゃいけない。


今回のHaTiDORiは、わたしは遠いところからやって来たただの参加者という感じで、これまで仙台に住む学生だったときと目線が違っていた。その地にいなければ分からないことがきっとたくさんあるのだろうと、遠くにいるといろいろなこと忘れてしまっているものだと思った。
一年前の学生だったわたしにできたことと、日々、あちこちを駆けまわりながら仕事をしているいまのわたしにできることはもちろん違う。
じゃあどうしようか。仙台から沖縄に仕事をしに戻ってきて、すこしそのギャップにぼーっとしていたのだけれど、日々たくさんの人とコミュニケーションをとりながらたくさんの物語を知ること、それを自分の一部にしていくこと、自分の生活とつなげていくこと、人に伝えていくこと、選び取っていくこと、未来を描いていくことができたらいいなと思えて、これからの自分の仕事を考える良い機会になりました。


今回、HaTiDORi始まる前にちょこっとじぶんの近況報告会させてもらったのだけれど、大学時代の同級生が何人か来てくれてとてもうれしかった。元気そうでよかったです。ありがとうございました。お互い元気でまた会いましょう。


そして、今回一緒にHaTiDORiやろうって声かけてくれたみずほさんに感謝。離れているからほとんど準備とかできなかったけれど、あの場所で、みんなとひとときを共有できてすごく幸せでした。
1ミリ1ミリ世界を良くしていきたいって言ってくれたみずほさんの強さと優しさに涙。半端じゃない思いを感じました。
山田洋二の「学校」に出てくる人たちもみんな優しくて愛おしくて、見ながらぼろぼろ泣いてしまったけれど、フィクションじゃなく、愛って存在するなあと思うのでした。



2014年3月14日金曜日

お知らせふたつ

毎日いろいろな人に会って毎日いろいろなことを聞くけれど、それをしっかり書き留めて人に伝えることができないとどんどんとこぼれ落ちていくのではないかと不安や焦りや苛立ちなんかを覚えたりします。

とはいえ、これだけは。
お知らせふたつ。

■「 心〜ククル〜UAやんばるLIVE 」 映画会  (←リンクに飛びます)
2014年3月14日19:30〜
パタゴニア仙台にて

沖縄の北部、「やんばる」と呼ばれる自然豊かな山の奥・高江集落の隣で、アメリカ軍が戦争の演習をするため、オスプレイなどが離着陸する「ヘリパッド」の建設が進んでいます。
建設のためになくなってしまう森は何万平方メートルと言われています。やんばるの森には、地球上でここだけにしかいないヤンバルクイナやノグチゲラなど貴重な固有種が生息しているそうです。一部の人間のエゴのために、こうした生きものや、そこに住む人たちの暮らしが壊されてしまう。

やんばるの森を守りたい。その想いで仙台に住むwasanbonオーナー・ふみさんが、2007年10月31日、 やんばるの森に、300人のオーディエンスを集めたUAさんのライブを上映します。
RICE PAPER 88さんが、この日のライブをメインに、トークセッションやヘリパッド問題など詰め込んだ映像だそうです。

ぎりぎりになってしまいましたが、仙台で、興味のある方は、是非。上映会の売上は、沖縄・高江の「ヘリパッドいらない住民の会」さんへの寄付になるそうです。



HaTiDORi (←リンクに飛びます)



2014/3/22(土)14:00~19:00
(終了後、20:30まで交流会を予定)
場所:0 base(ゼロベース)仙台
入場料1500円(1ドリンク付)※予定
※イベント収益の一部は、週末母子保養プロジェクト「ちいさなたびJapan」に寄付します。

2011年3月11日に震災と原発事故があってから、日本のエネルギーの現状やこれからのことについて、自分の思いや言葉がなかなか近くの人に伝えられず悶々としていた時に、みんなで学びながら話し合える場をつくろうと工藤瑞穂さんと何回も重ねてきたこのイベント(ここにいきさつなどちょこっと書いています)。

今回のHaTiDORiは、鎌仲ひとみ監督・映画『小さき声のカノン-選択する人々』プレ上映会と、福島の子供たちの保養、除染活動、食べ物の放射能測定、自然エネルギー普及等に携わるゲストの方のトークを予定しています。

開始前の13時から、工藤瑞穂さんとわたしの近況報告会をします。みずほさんからは祝島レポートと、HaTiDORiの活動報告、わたしは今の仕事(全国津々浦々の農家を走り回る?仕事)をしながら出会った人やものやことについて話すつもりです。もしよろしければこちらも。久々の仙台なのでいろいろな人に会えるのを楽しみにしています。

入退場自由なのでちょっとでも時間がある方、ぜひのぞきに来てください。ゼロベースはせんだいメディアテークから歩いてすぐのところにあります。

***

今週はあちこちでキャベツやらほうれん草やらピーマンやらひらたけやら貰いました。自炊は楽しくて美味しいです。
毎日美味しいものを食べれてあたたかい布団に入って寝られることに感謝。



2014年2月24日月曜日

いのちの成り立ち



すべてのものの成り立ちを知りたい。
つくれるものは何でもつくれるようになりたい。

最近の願望。
小中高とならったのテキスト通りで全然暮らしと結びついていなかった、というより結びつけることができないままカタチだけ覚えることをしてしまった。
いまようやく歴史とか化学とか物理とかをじぶんが見ているものに近づくために知りたいって思えるようになりました。

川はどうしてできるのか。山がなければどうなるだろう。深くまで根を張った成木がない場所は土砂崩れが起きやすくなる。風の強い沖縄の山には高い木が生えない。

山と海は通じている。海が青いのは空が青いから。太陽が出てあたりを照らすから。砂が白いから。サンゴがいるから。山の影は雲が流れるから。

泥は、土は、何からできている?どうやってできたのか?クチャは中国大陸から流れてきた泥が堆積してできた粘土ってほんとう?ジャーガル、赤土、その土地にある土によってその土地に成るものが変わる。植物が変わる。生きものが変わる。食べものが変わる。暮らしが変わる。文化が変わる。信仰が変わる。

***

写真は、琉球の創世神話で出てくる阿摩美久(アマミク)が天帝の命を受けて地上に降り立ち、稲を植えたとされている「受水走水(ウキンジュハインジュ)」という二つの泉。

沖縄は陽が出るともう初夏の陽気で、いのちがわさわさとひしめいています。

2014年2月21日金曜日

地を這う人

ナーバスなときっていうのはだいたいおんなじ周期でくるから、三砂ちづるさんの本に書いてあった話を思い出して、わたしの子供になれなかったいのちの欠片が泣いているのかな、そう思って腑に落ちた。別に違ってもいいけれど、そう思うとこの状態を自分が納得できるから。じぶんの中の他者を想う。

こんなときはほっと一息つける場所が必要。この間みずほさんが誰でも来られる公園のような場所をつくりたいと言っていたけれど、ほんとうに、そういう場所は必要で、わたしもどんな形でかは分からないけれど、ひとの居場所をつくる、ができたら。じぶんのこころが大変なときに優しくつつんでくれる場所。そんなことを考えていたらお家に帰りたくなってきた。雪が積もる埼玉。お母さんとお父さんとおにいちゃんと葉子ちゃんと弓隆とにゃーとにゃんこがいる家。

おいしいごはんが食べられる場所。あちこち行くたびそんな場所を探すのだけど、今回はなかなか見つからなくて。ひとりっきりで自炊宿なのでひさびさにご飯作っている。炊き込んだり、しりしり(沖縄では千切りにしたのそういうみたいだ)にしたのサラダにいれたり。このサラダにアーモンドと豆腐の味噌漬け散らしてお塩とオリーブオイルかけて食べるというのが最近のはやりです。
ブロッコリーとレタスを無農薬で野菜つくっているおじいにもらったのです、ブロッコリー茹でたのすごくおいしい。無農薬という言葉はやっぱり安心してしまうな、そうでないものが少しこわくなってきている。きょうも防除中のハウスに入ってしまって、マスクとかないし、どうしようってこわかったな。からだよりまず頭がそう思っているようだ。

***

そういえば、ひとの日記に登場するのってこそばゆいけれどうれしい。
つるまきまりの日記、とても好きでたまにのぞいている。あけっぴろげで、奔放で、すき。手書きの日記、絵もすき。彼女の日記読んでてわたしも書こうと思ったのでした、わたしはばしっとかっこいいこと一発で書けないからぐだぐだ書けるワープロ。

ナーバスになるといろいろなことが気に障るらしく、宿の壁が薄いこととか、宿の店主の雰囲気がなんか妙に心地わるかったりとか、慣れない布団の匂いが洗剤臭くて鼻についたりとか。
びゅんびゅんと飛ぶ人たちをうらやましいと思たり。
でもいっこいっこに躓きながらぐだぐだと進むのもいいかなと思っている。つまづくことができる幸せ。とか言って、一生懸命ポジティブにかんがえてみる。

先週末、萌子と伊江島に行って、いろいろなものを見てきて、阿波根(あはごん)さんの言葉がつよくつよくのこっている。それについては、またこんど書くつもり。

2014年2月17日月曜日

琉球王国へ



ずだだだだだ

という音を聞いたときはじめどこかで道路工事をしている音かと思った。
そうじゃなくてすぐ近くで米軍が銃撃戦の練習をしているんだよ、あれは機関銃の音だよと農家が教えてくれた。

わたしがいた恩納村は沖縄の中でも有名な観光地であると同時に「戦争がまだ続いている」場所でもある。

沖縄に来るのは二回目で、初めて来たときは高校の修学旅行でだった。平和学習で太平洋戦争の記憶をたどってはいたけれど、基地についてはあまり触れていなかったように思う。

「ここではまだ戦争は終わっていないんだ」とわたしが恩納村で会ったマンゴー農家はそう言っていた。

まぶしい太陽と輝かしい海と空とその生活のすぐ隣に戦争は在る。
沖縄から東京の大学へ来た同期の子は、東京に来て戦闘機が飛ぶ姿や音がないのが不思議だったと言っていた。

標的の村のコメントで、映画監督のヤン・ヨンヒさんが、
「人々は癒しを求め沖縄を訪ねる。
でも本当に癒されるべきは、沖縄自身なのだ。」と言っていた。

でも、わたしにとって、琉球王国はあまりにも豊かだった。
三線を弾きながら歌を歌ってくれた宿のおかみさん、安里屋ゆんたの歌詞と調子。家の近くで取れたモーイの料理。オジサンという魚のあら汁。花。そのあたりに蒔いた種から実ったホウズキ、子どものためにと本を選ぶ大人たち。青い海と空。色鮮やかな見慣れない熱帯果樹と熱帯植物たち。
土が痩せていてキビしか育たない場所という人もいるけれど、わたしにとってみると彼らはあまりにも豊かで穏やかで、彼らが外に何も求めるものがなかったからこそ、外から力づくで求めてくる勢力に何度も何度も翻弄されてしまったのではないだろうかと、そんなことを考えた。

標的の村では、「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の人びとが描かれていたけれど、それを観てきた話を農家のおじさんにしたら、自分は以前恩納村にゲリラ演習場が来る話を聞いて、身体を張ってくいとめた。それで恩納村に演習場が来る話はなくなったけど、その後その話は高江に行ったのだと教えてくれた。
沖縄の勝利などなかったのだ。

***

国ってなんだろうなと思う。
沖縄に来てから、よく、「あんたは本土の人?」とか、「大和ンチュか?」、「ないちゃー(内地の人)か?」とよく聞かれる。そのたびにわたしのアイデンティティってなんだろうって思って、そして自分は自分が何人であるかということをあまり意識していないのだと気づく(それはいいことなのかわるいことなのかはわからない。それはわたしが「わたしたち」という帰属するものを持っていないで、「じぶんたち」の語るべき歴史を背負っていないということかもしれない)。
けれど沖縄の人たちの感覚は違って、沖縄の人か本土の人間かではっきりと線が引かれている。

薩摩藩が封じて、日本が無理やり併合して、戦後アメリカになって、まだ今もアメリカの基地や飛行場が残る沖縄。
線を引いてきたのは沖縄の人ではないだろうけれど、歴史が、基地の問題があるからこそ、「琉球国」は今もあるのだろうと思った。

恩納村で出会ったみさこさんに、サツマイモという名前は沖縄の人にとってみれば屈辱的なものなんだよと教えてもらって、何も知らずに、何気なく言葉をつかうことは恥ずかしいことだと思った。
さつま揚げもそうで、琉球から渡った食べ物が、薩摩の名前を冠して日本で知られていることへの憤りがある。いまでも鹿児島の人が嫌いだという人もいる。
彼らのそうした憤りに対して、何も知らなかった私は恥ずかしいと思う一方で、自分につながる歴史を持って生きているみさこさんの矜持のようなものは、わたしには無いものだとも思った。

驚いたのは、日の丸のはなし。
先月鹿児島県を回っていて、「日の丸の発祥地」ということがあちこちに書いてあってなんだろうと思っていたのだけれど、もともと日の丸は航海中の船が掲げる旗からきているらしいのだ。それを最初に掲げたのが鹿児島・薩摩である、ということを言いたかったようなのだけれど、沖縄に来たらそれは違うよと言われた。

もともと中国文化圏にあった琉球王国は、外国に行くときにムカデ旗と北斗七星の旗、日の丸を掲げるよう中国政府から命じられていて、それを彼らは忠実に守っていたのだそうで、その旗を見た薩摩の人がかっこいいデザインだと思ったからか、薩摩藩でも使い始めた。それがまた「日本の旗」として使用されるようになり、今に至っているのだそうだ。
日の丸を誇らしげに掲げる人たちのどれくらいがこの話を知っているかは分からないけれど、右翼は絶対にこのことを認めたくないだろうねとみさこさんは言っていた。

自分の身体のはじっこで何が起こっているのか知らないように、同じ国だと思っていた割にはわたしは日本列島の南にある沖縄で何が起こっているのか、何が起こってきたのかを知らなかった。
それは沖縄に限った話ではなくて。
今日父と電話していて、埼玉の実家では歴史的な大雪で鶏舎もハウスも潰れてしまって野菜が当分出荷できなくなったと聞いた。物流も止まってスーパーも品薄とのこと。
その話を聞いて震災を思い出したけれど、報道はオリンピックと都心の交通被害のことばかりで、地方や山奥で心細いおもいをしている人たちはどう思うんだろう。

沖縄に来てから琉球新報と本土の報道があまりにも違って驚いたけれど(琉球新報だと辺野古のことが毎日のように一面を飾っている)、それも同じようなことで、一緒の国に住んでいても都市とその周辺地域というのは分断されていて、それをじぶんのこととしてすみずみまで感じることは難しい。
父曰く、血流(モノとか金とか)は通っていても神経が通っていない。想像力が働かないのだ。
つま先や膝小僧から出血したり、内臓が病んで、助けてくれと言っているのに、頭は違う方向を向いていて、全く気付いていないような感じだろうか。身体全体がげんきであることがいちばんいいと思うのだけれども、どうにも偏ってしまっている。そんなことでは身体がもたないように、国だって長続きなどしないと思うのだけれど。

この仕事をしていると、あちこちに行くから、そこに住む人たちのことを知るたびに、わたしの国は拡張される。たぶん制度や歴史によって決められた国境というのはどうでもよくて、わたし自身がどこに線を引くか、どこまで感じられるかでわたしの国は都度形も大きさも変えるのだと思う。


2014年1月28日火曜日

七代先

「七代先のことを考えろ」というのは世界中、どこの民族でも言われている格言なのだそうだ。
と、世界各地の先住民の地を旅した人が教えてくれた。

今の社会にあるものはほとんどそんなことが考えられていなくて、確かに原発とか、化学兵器とか、農薬とか、人工的に一時的な欲を満たすためにつくられたものというのは、ほんとうにその場限りのもので、ほんとうに先がないものばかりだ。そんなものしかつくれないというのは、すごく貧しいことだろうなあとおもう。
考えてみたらわたしたちの身の回りにある仕事のほとんどは、その一時的なものをつくり出したり、それをサポートしたりする仕事ばかりじゃないだろうか。七世代先、とはいかなくても、もう少し未来のことを想像しながらやっている仕事があまりにも少ない気がする。

仕事というのは本来、そういうものであったのではないだろうか。祝島で見た平さんの棚田は、3代先の子供たちが食べるものに困らないようにと、膨大な時間をかけて、大きな石を一つ一つ積んでつくったものだった。日々の生活と七代先のことが地続きである仕事。
仕事=お金を得るためにすることと、その意味が矮小化されてしまったのはどうしてだろう。仕事も生活も目先のことだけ考えすぎたせいだろうか、あまりにも遠くて、どうにもならないような感じになっているのがやるせない。

先の人からは、今のスーパーで売っている野菜は、本物ではないから腐る前にとろけてしまうんだよと言われた。土だと思っているものや、野菜だと思っているものがそうではないとしたら、それを土だと思って、野菜だと思って一生懸命つくっているひとたちはどうなるのだろうと思って、悲しくなった。

お正月に、久々におじいちゃんやおばあちゃんと会って、彼らがいきてきた時代のはなしや、その前の時代の話を聞いて、じぶんのルーツをおもったときに、いのちというものはつながっていて、だからこそわたしがいまここにいられるのだと、すごくながいスケールでじぶんのいのちのことをおもうことができた。そして、これからじぶんのいのちが次のいのちにつながっていくのだから、それが直接的になるか間接的になるかはまだわからないけれど、七世代先のことを考える、という意味が少しだけ分かるような気がした。

もらいすぎているひと

「わたしちょんぼなのよ」と突然出会いがしらに50代くらいの女性に言われる。
彼女はどうやら自分が未婚であるということを言いたかったようで、でもそれをあっけらかんと言われたので、わたしは面食らってしまった。もうこの先こどもをつくることができないこと、とか、つれがいないこと、とか、そうであることの悲しさというのは多分ひとことでは言い尽くせないものだろうけれども、彼女はなぜだか明るくて、いろいろなものへの感謝を口にするのでわたしはちょっとわけが分からなかった。

年老いた父と母の世話をしながら、花と野菜と枇杷をつくっている。わたしは突然やってきて、話しかけただけの人で、彼女に何もあげたわけでないのに、これ持って行ってと彼女がつくっているユリを持たせてくれた。骨ばった特徴的な顔立ちの人で、わたしは青森出身の友人のことを思い出した。

彼女にかかると、じぶんはもらってばっかりいるそうで、それはモノとかお金とかではなく、旦那さんはもらえなかったけれど、ほんとうにいろいろな人に良くしてもらっていて、こうして農業ができるのも、みんなのおかげで、たくさんのものをもらっているから、わたしもあまり損得考えずなんでもひとにあげるのよと言っていた。ひとにあげると自分に返ってくるでしょうと。
あげすぎているからもらうのか、もらいすぎているからあげるのか、は分からないけれどとにかくわたしはユリをもらい、不思議な気持ちで彼女と別れたのでした。奇跡のような出会いが、まいにちあることに感謝します。もらいすぎているひとはわたしだ。

2014年1月27日月曜日

めぐるからだ

今月もまた、生理がめぐってきた。
月に一度、生理が来ることでわたしの身体はいろいろなバランスをたもっているようで、毎回生理の前は調子を崩すのだけれど、先週は熱っぽくて、妙にイライラして体調が悪かった。なんだかんだ言っても、まだわたしは自分の身体のことをよく知らなくて、自信がないから、体調を崩すとこころ弱くもなってしまう。パブロンを飲む?と先輩に言われてお断りしたのだけれど、確かにひとりで寝ていると自分の身体というものは頼りなく思えて、何かに頼りたい気持ちにもなる。でも毒を出し切った後の身体というのは軽やかで、わたしもこんなにしなやかないのちを持っていたのかとありがたいきもちになった。
身体に余裕がなくなると心にも余裕がなくなるから、卑屈になったり、ひとのことを悪く思う自分が顔を出して、でもそんな自分も嫌いになるのだからいいことはひとつもない。
こころも小さくなったり大きくなったりを繰り返している。熱が出きって、体にたまっていた毒が出ると、そういう症状を笑うこともできて、変化して、変わっていくじぶんのいのちを愛おしくおもう。

身体がどういう状態であるかでこころも変わるから、身体の状態次第でその日その日の出会いが変わるのだ。いい出会いができる日はいい身体である日で、ぐずぐずとしているときは、視野が狭くなってどうでもいいことに執着して、どうしても出会いをありがたくいかせなくなってしまうものだ。
まいにちまいにちを感動して生きることができるのは、まいにちまいにち自分の身体のことをだいじにできているからで、自分の身体を粗末にしないことは、自分の身に入れるものや身に着けるもの身の回りにあるものを大事にすることであるわけです。

2014年1月13日月曜日

桜島のふもと、宇宙人



鹿児島へやってきた。
いちねんくらい前にともだちと遊びにやってきて以来で、そのときはただあそびでまわっただけだったけれど、こんかいは仕事なので、この土地で土を耕す人たちとたくさん話す。

わたしが通っている場所は、大隅半島の西側、錦江湾に面していて、桜島のふもと。
常に煙を吐き続けるおおきな山を毎日みて育つというのはどういう感じなのだろうか。
地域で暮らす、というのはその土地のけしきが血肉化されて、その人をかたちづくっている。だからかわからないけれど、彼らは、わたしにはない情緒をもっているような気がする。桜島の情緒、だろうか。桜島だけではなくて、高隅山とか、近くには七岳とか、錦江湾に沈む夕日とか、ものすごく、自然がむき出しで、植生も違って、木がわさわさしていて、とにかく、わたしにとっては異国なのだ。

いつだって、ひとと出会う中で、たくさん感動させられるのだけれど、先週、すごくすごくうれしかった出会いがあった。

ひとつは、千秋ちゃんとの出会い。千秋ちゃんはわたしと同い年で、大学を出て、ひとりで農業をはじめた。野菜は露地で、無農薬で、季節のものをすこしずつつくって、学校給食に出したり、道の駅に出したり、個人販売をしたりして生計を立てている。
彼女は県立大の農学部に行っていて、皆が就活をしているときに「農活」をしていた。農業委員会にかけあって、借りられる土地をさがしていたのだそうだ。
父親や母親は勤めていて、休みの日は手伝ってくれると言っていたが、ほとんどの日はひとりで、畑を耕し、野菜をつくっている。笑顔がとても晴れやかで、気持ちのいい人だった。
同じ年だから、同じ女の子だから、想像するのだけれど、いちから農業をはじめるのは、もちろん簡単なことではなく、無農薬でやりたいという意志を貫くためにはずいぶんと苦労をしたはずで、でも千秋ちゃんが育てたブロッコリーはすごくきれいだったのだ。
そんなひとに出会えたのがほんとうにうれしくて、もう泣きそうだった。たくさん握手をして、友達になりました。

そして、千秋ちゃんは震災のときに、東北に行って手伝いができなかったことを悔やんでいて、いまでも何かしたいとおもっていると言っていた。東北で、農業をしている先輩たちが大変な思いをしているとおもうと、悲しくて、じぶんもなにか手伝いたいのだと言っていた。
先輩たち、という言い方。遠く離れていてもそういうつながり方があるんだと、土を触る人たち同士の連帯感というか、その確かなかんじがすごくいいなあとおもった。

その次の日に出会った人も、事故が起こってから、自分は福島の人みんな、東北の人みんな、鹿児島においでよと言ってあげたかったから、自分は市長にそう頼んだのだと言っていた。

距離的にこれだけ離れていても、ひとは思いを寄せることができて、その考え方が正しいとか間違っているとか言うつもりはなくて、おもってくれているということだけでわたしはとてもうれしくて、そのやさしさに、ただ勝手にありがとうとおもうのでした。

もう一つの出会いは、これも若い夫婦で、3年前に奥さんのおばあちゃんの家に移り住んで自然農法でお米やお野菜をつくっている山田さん。
行ったら子どもたちと一緒にそとで洗濯物を干していた。山田さん夫婦は二人とも東京や奄美大島で環境保全の仕事をしていたらしい。生き物に優しい暮らしがしたいと思って農業をはじめた。
「地域を変える、田畑を変える、農業を変える、食を変える、暮らしを変える」がモットーで、カエルをトレードマークにしている。カエルはふたりが生態系の調査などで追っかけていた対象で、家にはカエルグッズがたくさんあった。
ひきがえるを飼っていて、子どもたちがみせてくれた。



このカエルの話を聞いて、仙台で活動しているカエルノワというお母さんたちの団体を思い出してうれしくなった。

ふたりとも、バランス感覚が優れていて、自然農法にかぶれるわけでもなく、まっすぐにできる農のかたちをさがしていて、慣行農法をやっている人からやいのやいの言われることもあると言っていたが、自分たちのやり方をしっかり貫いていて格好良かった。
種取りもしていて、今度東京である古来種ファーマーズマーケット「冬の種市」に種や野菜を持っていくとのこと。大変なこともあるけれど、と言いながら、なんでも楽しそうにやっていて、家族がみんなひかりかがやいていてまぶしかった。

柳田さんとそのいとこの俣江さんやいろいろの知り合いを紹介してもらえたのもありがたいことでした。 柳田さんは最初会うなり、世界の成り立ちの話になった。人為と自然と。
ロスチャイルド家から坂本竜馬、安倍晋三に至るまですべてフリーメーソン、イルミナティに牛耳られているという話。
農薬も薬も添加物も石油製品で出来ていて、農業もこうした流れの中にあるんだよと。石油製品は人間が合成したものだから全くエネルギーがないのだけれど、このエネルギーがない農薬漬けの野菜や添加物まみれの食べ物をまいにち食べている若い人たちのことを本気で心配していた。
どこまで信じるかはあなた次第だけど、と言いながらいろいろな話をしてくれた。面白い人だった。子宮頸がんワクチンは使うな!とも言われた。

フリーメイソン、という言葉にしてしまうのには少し抵抗があるけれども、でもわたしは彼が言わんとするところがなんとなくわかる気がする。
コンビニの食べ物が信用できないのは悲しいことで、でも顔の見えない大きなものは信用するのが難しい。防腐剤っていったいなんなのか、なにでできているのかわたしはわからないけれど、腐らせないように食べ物は殺菌されていて、菌を殺すっていうことは、わたしたちのからだの中の菌も殺すわけで、それを気づかぬままからだに取り込むのをよしとしているこのしゃかいというのはやっぱり信用できない。コンビニのおにぎりが塩素で洗われていたり、ツヤツヤした見た目にするために光る粉をかけられていたとしてもそれを知らないでたべることができる。
どうしたって、いのちの世界を大事にしようとすればそんなことはできないとおもうのだけれども、お金の世界の論理は違って、今せかいはそのお金の論理で動いていて、そのためならなんでもするというひとたちが、戦争を起こさせたり、石油製品や電気や薬をたくさん使わせようとするのには、わたしたちが何も知らない方が都合がよくて、メディアだってお金で操作できるのだから、知ろうとしなければ彼らが思うとおりのことをするだろう。
ひとびとが元気でいるよりも、病気になって医療費を費やしたり、薬をたくさん使ってくれたりするほうが都合がいいから、たべものの世界はこんなになってしまった。

と、嘆いてもしかたなくて、柳田さん曰く、いまの若い人たちでも気づき始めている人がいると。頭の使っていなかった部分が動きはじめて、田舎へ向かう人が増えてきたと。
わたしは同世代のことを遠くからながめることができないので、そうなのかなーと聞いていたけれど、千秋ちゃんや山田さん夫婦のようなひとびとにはたまに出会うし、そこに明るいひかりのようなものを感じる。みくさのみたからを教えてくれた飯田さんがわたしてくれたもの、服部みれいさんの本があちこちにおいてあることとか、むかしは知らないけれど、扉はたくさん開かれているようにおもう。

とにかく、毎日からだを開いていると、ものすごい出会いがどどどと押し寄せてきて、ものすごいりょうの情報がからだにはいるので、大変なこともあるけれど、どうにかして定着させたくて、言葉にしている。
であるけれど、まだまだ間に合わなくて、でも大事にしたいとおもうのです。
ありがとうと、ごめんなさいと、あいしています。

ちなみに、鹿児島に来てから、宇宙人とUFOの話を聞くことが増えました。増えた、というか、いままでほとんど聞いたことなかったのに、まいにちのように出会う人がそんなはなしをするので、すっかり、わたしもそういう存在がいてもいいかなと思い始めています。
 

2014年1月12日日曜日

買い物と憂鬱

買い物はとても好きです。

きょうは博多で一日中、街中をうろうろして、買い物をしたり、美術館に行ったりしました。

美容室に行ったら、いつも髪を切ってくれるお姉さんが、年賀状をくれてとてもうれしかった。鹿児島や愛媛を回ってきた話をしたら喜んでくれた。お姉さんはとても小さくて、いつも変なメガネをかけていて、髪も赤とか黄色とかカラフルで、かわいい。6人兄弟の、長女。お母さんも美容師さんだったらしい。お父さんが自衛隊の人で、転勤で北海道いったり、沖縄行ったり、九州中あちこち行っていた、なんて話を聞いた。童顔で、お酒を買いに行くとよく難くせをつけられると言っていた。博多に来てから知り合って間もないけれどなんだか好きな人。

美容室に行った後、福岡アジア美術館でスタジオジブリのレイアウト展というものがやっていたので見に行った。レイアウトはいろんな人の手によって書かれていたけれど、宮崎さんのものはこれだろうな、となんとなくわかった。迷いのない、正解を一瞬で引いてしまう力強い線を見ると、わたしにはできないことで、ただただ、圧倒された。

アジア美術館、近くをいつも通っていたのだけれど、初めて行って、いつも面白い企画をやっているようだった。常設展のところで中国の切り絵展をやっていて、見て、いっしゅんで、好きになった。たしか、チャン・イーモウの『初恋のきた道』でも切り絵が出てきた気がする。チャン・ツィーが本当にかわいかった。
アート、というのは特別なものではなくて、ふつうの人たちの生活から、湧き上がる祈りや願いだったりする。中国の黄土高原で暮らす彼らのその営みというのはわたしにはわからなくて、ただ夢想するしかないのだけれど、ちょきちょきと、ハサミで紙を切って美しい模様を描くひとびとのことを考えるのはとても素敵なことでした。そして、わたしにもアジアの血が流れているのかな、とかいろいろ考えて、どこから来たのか辿っていったら彼らとも遠くはない気がして、いつか行ってみたいとおもいました。



お昼は、美術館にあったベンチで、林田さんが持たせてくれたおにぎりを食べて、ゴボウ茶を飲みました。道行く人には変な目で見られたけれど、みんな外でごはん買って食べるより、おにぎり握って食べたらいいよというふうな感じでわたしは得意げにごはんを食べました。美味しかった。

それから、たんじょうびを迎えるひとや出産祝いの先輩へのプレゼントを買いに、天神へ。
驚くほどたくさんの人がいて、目が回った。
いろいろと買ったあと、美容室のお姉さんがD&DEPARTMENTの福岡店が祇園にできたと教えてくれたので行ってみた。ナガオカケンメイさんセレクトの品々がずらりと並んでいた。かっこよくて、選び抜かれたデザインのものたちばかりで、かえって、参ってしまった。
長靴を試着していたら店員のお姉さんに声をかけられて、冷え取りをしているんですか、と聞かれた。彼女も冷え取り中らしい。

買い物はすきで、たのしくはあるのだけれど、平日農村をまわっているわたしには、ものすごいいきおいで消費を煽り続ける街をめぐるのは結構つかれる。たくさんの若い人たちが(若い人たちだけではないけれど)こぞって集まって、物欲の限りをぶつけ合っているとおもうとなんだかやるせない。そのエネルギーもうちょっと有効につかえないのかなあとかおもった。

きょうの大きな買い物のひとつは炊飯器であって、ヨドバシカメラにもいったのだけれども、家電ってこんなにあるのか。寮生活だとほとんど家電とは縁遠いのでしらなかったけれども、こんなにもたくさん買わねばならないものがあるのか、いや、買わねばならないわけではないけれども、炊飯器ひとつえらぶのも大変で、お客さん一人一人にどうやって物を買ってもらおうかと奔走する店員さんたちを見ていたらなんだか具合が悪くなった。

ナガオカさんたちのコンセプトはとてもよく分かって、ロングライフデザイン、確かにいいことだとおもうし、どんどんと消費を煽るパルコとかヨドバシカメラとかそういうのとは一線を画している感じがあるとおもう。けれどもその選び抜かれた各地の品々を買うことができるのは都市生活者で、少しお金のある人たちで。わたしもそういううちのひとりになっているのだろうか。別にいいけど、なんか居心地が悪い。冷え取りにしても、じぶんをだいじにできるのはいいことだけれど、あまりにもだいじにしすぎて、モノに走りがちになっているじぶんがなんとなくいやで。とても面倒くさいのだけれども、この矛盾みたいなものは買い物のときいつも感じている。買い物に向かうときはいつもこころがうきうきするのだけれど、お金をたくさんつかっていろいろなものを抱え込んで帰る途ではすこしこころが重たくなっていたりする。ゴミを出さない生活は遠いなあ。
友達が、服部みれいさんの出す本や雑誌をよんでいるひとたちのことを「暮らしセレブ」と呼んでいて、なんだか笑っちゃったのだけれど、そのかんじ、すごくわかる。
エコでコンシャスな暮らしを素敵にしているじぶん、というのが好きで、そのためならお金を惜しまない。それって普通のブランド品が好きで自己顕示のために消費し続けるひとたちとそんなに違わないのではと。意地悪ないい方だなあとおもったけれど、でもじぶんもそういうところがあるので(だから特定の人を揶揄しているわけではなく、せんびきをする気もないのです)、ああ、だからわたしはなんでもつくれるようになりたいなあとおもう。

こうでなきゃだめ、というのはとても窮屈な話で、でも、なんでも選べる場所にいるじぶんは、わけもなく恵まれすぎている気がする。都市と農村の関係を考えるとやっぱりやるせない。潔癖であるひとなんていないのだけれども、でもこのもやもやする感じは消費しかできないじぶんに向かっているものなので、やっぱりすこしでも手を動かしてものをつくりたい。
清貧と同じように清富があるとどこかでみれいさんが言っていた気がするけれど、わたしにはまだそれっていうのがわからなくて、わたしにとって持ちすぎていることは居心地が悪いことです。ちょっとくらい見た目はみすぼらしくて、でも心が豊かな人になりたいなあと思うのは、持っている、贈与されていることの重みに耐えられないから。
大学で贈与論をかじったけれど、たぶん、贈与されているありがたいという気持ちがあるのと同時に、なんだかこんなに持ってしまってもうしわけない、ひとにくばらなきゃという気持ちがはたらくようで、いまわたしはありがたいことにたくさん物を持っているので、人に配って回りたい気持ちになる。そうではないときだってもちろんあって、自分がもらうことばっかり考えているときだってあるのだけれど。

寮に帰ってきてからは、コーヒーを飲みながら林田さんと一緒に大河ドラマを見ました。大河ドラマ見るのほんとうにひさびさだった。
さいきんはまいにちがしあわせで、うれしいのと同時に泣きたいような気持になります。
母親にはわたしが生き急いでいるように見えるらしく、わたしもこの感じがいつぷっつり切れてしまうのかとハラハラしています。
でも、おまじないのおかげなのかどうかわからないけれど、ここ何年かでじぶんがいい方向へと変わりつつあるような気がする。いい出会いが増えたし、人交わりも深いところでできるようになってきた。いままで閉じていたものが開きつつあるという感触。いろいろなものに感謝。

なんだか、きょうの日記はじぶんについてのはなしばかりでぐだぐだになってしまった。
鹿児島で、とても素敵な出会いをしてきたのであしたにでもそのことを書きたいとおもう。

2014年1月3日金曜日

としのはじめに

年が明けました。


今年わたし年女です。
そんなこともあり、草原(海原でもある)を駆ける馬を描いてみました。
火山は噴火しようとしているのか、してしまったのか。夜空を照らす星々は喜ばしいことなのか、天変地異なのか。
とりあえず、馬は明るい方向に向かって走ります。


ハチドリのひとしずく
天を飛ぶ鳥はハチドリ。
ハチドリという鳥にはとくべつ思い入れがあります。
3月11日に震災と原発事故があってから、日本のエネルギーの現状やこれからのことについて、自分の思いや言葉がなかなか近くの人に伝えられず悶々としていた時に出会ったのが工藤瑞穂さん。
三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会、通称・わかめの会での活動がきっかけでした。
女川原発や六ヶ所村の再処理施設など、昔から原発やエネルギーについて考え活動していた人たちに励まされた分、まったく無知であった自分たちの世代でもこの問題を一緒に考えて話し合いたいとおもっていました。

そんな時に、瑞穂さんがエネルギーについてあまり知らない自分たちの世代でもふらっと立ち寄れてこれからのことを話し合えるような場所を作ろうと話を持ちかけてくれ、2012年3月24日、一にHaTiDORiというイベントを行うことに。

それから今に至るまで、仙台のクラブハウス・パンゲアやせんだいメディアテークを会場に、知識や情報を共有し対話する場と、音楽や踊り、アート、フードなどを通して自分たちの思いを表現する場を融合したイベントを定期的に開催してきました。
(→HaTiDORi



イベント名のHaTiDORiは、「小さくてもわたしにできることを」と、燃えている森にくちばしで一滴ずつ水を運んだハチドリの逸話から取った名前。

私は今仕事で九州にいるけれど、どこにいてもハチドリのように、小さくても自分にできることをしていきたいなとおもっています(というか自分にできることしかできないのだけれど。じぶんだけのことではなく、もうひとまわりかふたまわりくらい大きな輪のことを考えながら)。

(写真は、去年三月にやったハチドリの会場、パンゲアで撮ったもの。お飾りに相当、力を入れています)


うちのお正月

去年は卒論締め切り間際で年末年始実家に帰っていなかったから、今年はひさびさに家でゆっくり。毎年母親が結構しっかりお節をつくっていたのだけれど、今回は去年母のお兄さんがなくなってしまったこともあり、ひかえめ。
それでも、家でとれた野菜をつかったお煮しめ、なます、家でとれたにわとりの卵でつくった卵焼き、とか、つくるところから食べるところまで見てやって味わえるのはとても幸せなことでした。

今年のわたしの抱負は、うまいたべものをつくる、食べる、さがす、です。
せっかく仕事であちこち回れるので地方地方のうまいものを探して食べて、つくれるようになりたいなと。

去年の年末から自炊欲がむくむくと出てきたので、さっそく家でもなにか作ろうと思っていたのだけれど、正月の実家にはお節をはじめ、たべものがあふれていて、幸せなことなのだけれども、特にたべものは何もつくらず仕舞いでした。

その代り、飲みものを。
ゴボウ茶と、サングリア。
サングリアは、もらい物の果物がたくさんあって白ワインもあったからただそれを漬けただけ。
ゴボウ茶はちょっとさいきんはまっているもので、飲むとお通じがよくなるんです。12月に愛媛県に行っていたのだけれど、立ち寄った道の駅で売っていたゴボウ茶を会社のひとたちと飲み始めてから大流行り。香ばしくて、おいしいうえに、水溶性の食物繊維が茶の中にたくさん入っているので快調(快腸)に。
で、家に帰ってきてからもお土産のゴボウ茶飲んでいたのだけれど、ゴボウは家にあるしお茶つくろうよと母親と意気投合してつくりました。ゴボウ茶。
スライスしたゴボウを2,3日干して、チップ状に砕いてから弱火でじっくり煎ったらできあがり、という簡単な作業なのだけれど、じぶんでつくるのはやっぱり楽しい。煎る作業は結構時間がかかったけれど、ちのみちとおしながら、腰ふりながら、踊りながらやったらほんとうに楽しかった。

この年末年始、実家で過ごしてみてしみじみ感じたのは、わたしのたべものへの執着、というか情熱、みたいなものは実家で植えつけられたのだということ(とくに父はその傾向が強い)。
年末、家に帰ってくるなり、おでんの話。今回練り物がなかった、卵が入っていない、味が薄いとかで大騒ぎ。
たくさんつくってあったから次おでん食べるときは卵を入れようとなったのだけれど、今にわとりさんたちが寒くて卵をそんなに生んでいないから自家用卵があまりない、じゃあ何個入れる?6個は入れすぎ、お正月の卵焼きが作れなくなる、じゃあ3個。きれいにゆで卵つくるのにはどうすればいいんだっけ、常温に出しておく?ゆでる時に沸騰する前、水から入れておくんだっけとかいいながら。結局うまくむけなくてぼろぼろになってしまったのだけれど、やっぱり卵が入ったおでんは美味しかった。


ふたたび、安倍晋三
このあいだ、としのおわりに で安倍晋三のこと、みくさのみたからのこと、たべもののことなど書いたら思いがけずいろいろなひとからレスポンスが。自分がふだん思いもしないことを考えている人がいたり、いろいろな意見を聞けてすごくありがたいことでした。

そしてまた、わたしは彼のことを考えてしまう。愉気してあげたいとか言いながら、年末のニュースで彼の顔がテレビに映って株価がどうのこうの、アベノミクスがどうのこうの、聞いたとたん、そんな気持ちはどこかにいってしまっていて。分かり合えなさみたいなものから憎悪ににた感情をもってしまったのでした。ふう。

あなたはどこを見ているんですか、と言いたい。わたしは農村を回るたび、年老いた農家の人たちの溜息を聞きます。
減反廃止したら農業を続けられなくなる。TPPが来たらもうコメをつくってもしょうがない。おれたちは切り捨てられたんだ。って本当に悔しそうに。泥から、種から、うまいものをつくって、そのいのちをわたしたちに届けてくれている人たちを放って、なんでそんなに笑って、自分がしていることを肯定できるんだろう。あなたが食べているものはどこのだれがつくっているものなんですか、その人たちはどうやって生活しているか考えたことあるんですか。お金とか、目先の利益を追求したところで明るい未来なんてあるわけないでしょうってどうしても思ってしまって。

でも、彼が言う「美しい日本」や「とりもろす」という言葉にはわたしたちが共有しているいまの空気みたいなものが現れている気がする。
無意識のうちにも、3月11日以降失われてしまったものというのは、わたしたちのこころに大きな傷跡を残しているのではないか。とりもどせなくなってしまったもの、海のもの、山のもの、空気、水、生活。この地に生きている限り、意識していなくても、からだは 自然であるので、やっぱりその欠如をひしひしと感じているとおもうのだ。
でもそのとりもどし方がみんなわからない。わたしは足元から、土から見直すしかないと思っているから、泥からたべものをつくっているひとたちを見て回りたいと思って、いまあちこちに足を運んでいるのだけれど、そこには本当に豊かなひろがりがあります。じぶんでいちからつくれるのだということ。
でも、そのすべを知らなければ、どうやってその欠如を満たせるのかと考えた時に、お先真っ暗な「尖りきった岬(わたしの父の言葉を借りれば)」に向かうほかなくなっているのではないだろうかとおもう。安倍晋三の思いつめたような言動をみているとそんな風におもえるのだ。

そこに至る気持ちがわかったとしても、しかしその岬から一緒に心中するのはごめんです。馬のようにしなやかにちからづよく、鳥のように自由にかろやかに、光のさす方へ跳んで飛んでいきたいのです。